部屋に戻った無明と白笶だったが、そのままこの茶屋に泊まることにした。元々どこかの宿に泊まり夜を待つ予定だったので、違う宿を探す手間が省けたのだ。
椅子に座っている無明の髪を梳き、慣れた手つきで左右ひと房ずつ三つ編みを作ると、乾いた赤い髪紐でそれぞれを纏めてひとつに結った。残った髪の毛はそのまま背中に垂らす。結い終わったのを確認して、無明は後ろにいる白笶をそのまま見上げる。
「白笶は本当に器用だよね、」
黒い衣に着替えた無明だったが、今の髪形ならば先ほどの衣の方が合っている気がしてならなかった。白笶は見上げてくる翡翠の瞳をただじっと見つめ返すだけで、特になにも答えない。
「俺はいつも適当に括ってるだけだから、こういうのは新鮮なんだ」
紅鏡を出る時は、藍歌が結ってくれて、途中は白笶が直してくれた。碧水に着いてからは手間がかかるので、結局いつも通りの髪形にしていた。
「じゃあ、ここからは本題に入ろうかな。白笶も座って?」
正面の椅子に座ったのを確認して、無明は真っすぐに白笶を見つめた。ここに来た目的は、ただ市井を満喫するためだけではない。
身をもって試したのですでに検証済みだ。身の危険には至らなかったが、それは白笶《びゃくや》がいたから回避できただけ。しかし聞いていた場所から移動していたのが気になった。
「水妖は移動する。先ほどの場所に留まる可能性は低いだろう」
白笶は市井の簡易的な地図を広げ、指差す。
「最初の怪異はここ。上流に近い場所だった。その次はこの場所、」
「さっきの接触事故はこの辺りだったよね?」
こく、と小さく頷く。そうなると次に現れる場所はもっと下流の方だろう。夜になれば船は出ず、外を歩く者もいない。捜すのはひと苦労かもしれないが、範囲は絞れるはずだ。
「この辺りの水位はそんなに深くはないが、引きずり込まれたらこちらが不利」
人は水の中では思うように動けず、それは自分たちも同じだ。気を付けなければこちらがやられてしまう。現に、すでに何人かの術士が瀕死状態になっており、白笶に依頼が回って来たのだ。
「君が心配だ」
「でも囮は必要だよ。さっき俺を逃したわけだから、もしその水妖に執着心があるのなら、最適の餌でしょ?」
水妖を誘き出してわざと捕まり、あとは白笶が倒すという単純な作戦だ。単純だが、とても危険な賭けでもある。水に引きずり込まれてからの時間に制限があるからだ。下手をすれば無明も、瀕死状態の術士たちと同じ轍を踏むことになる。
「俺は君を信頼してる。絶対に大丈夫」
無明は恐れを知らない子供のように、大丈夫と言い切る。嫌な予感が頭の中を過ったが、白笶は静かに頷くしかなかった。
✿〜読み方参照〜✿
無明《むみょう》、白笶《びゃくや》、藍歌《らんか》
碧水《へきすい》、紅鏡《こうきょう》、市井《しせい》、水妖《すいよう》
後悔していた。 無明が運河に呑み込まれ、あの渓谷の妖鬼が、突如結界を破ってあの怨霊の塊へと向かって行った。 この領域結界が誰が張ったのもので、なんのために張ったのか気付いた時、隠していたもうひとつの力を使うかどうか、その一瞬の迷いが明暗を分けた。結果、無明を危険に晒し、挙句、渓谷の妖鬼に再び連れ去られた。 水龍は運河に戻り、領域結界も消え、元の静寂を取り戻す。あの怨霊がどこから来たのか、なんのために怪異を起こしたのか、よく考えれば解ることだった。白鳴村で起こったあの悲劇。すべては大量の怨霊を作り出すための布石でしかなったのだ。 湖水の運河は玄武の宝玉の恩恵を受けており、上流から時間をかけて流れてきた怨霊たちは、徐々に穢れを膨らませ、陰の気を纏い、そして神聖な水龍を邪龍に堕とした。水が穢れれば、宝玉はそれを浄化しようと穢れを吸う。必要以上の穢れを一気に取り込もうとすればどうなるか。 それは非常に手間をかけ、綿密に練られた計画。しかし、あの時の黒衣の少年が、ひとりでそれを思い付いたとは考えにくい。彼はとても感情的で、どちらかと言えば命をしぶしぶ遂行していたように見えた。だからさっさとあの場から消えた。最終目的は宝玉を奪うこと、ではない。四神の代わりである宝玉を穢れさせ、この地の守護を消すこと。 白鳴村のすべての村人の命を犠牲にして、あの怨霊の塊を作った。あの黒衣の少年の本当の目的は、これだったのだ。(あれが傍にいるなら、無明は安全だろう、) 白笶は本当はすぐにでも無明を取り戻しに行きたかったが、白群の公子として、この事態を報告する必要があった。その表情はいつものように無に近く、しかし隠れている袖の下で握りしめた拳は、爪が手の平に食い込むほど強く握られていた。**** 湖水の都である碧水は渓谷に囲まれており、白群の一族たちの住まう敷地の裏手には霊山が聳え立つ。霊山は神聖な地で、穢れひとつ、妖者一匹立ち入ることはできない。 玄冥山。宝玉が封じられている場所から、遠く離れたその霊山の頂上近くに、白群の一族さえ知らない古い洞穴があった。その奥には何百年も前に忘れ去れた祠が、ひっそりと建てられていた。「ホント、いつ来ても陰湿な祠だよね」 その明るい調子の声に、祠の主は特に何か言うわけでもなく、ただ、その者が連れてきた客人の方に驚く。彼の腕の中で、ぐっ
水の中は春の終わりにしては冷たく、なにより真っ暗だった。絡みついてくる黒く長い髪の毛のような"それ"が、無明を包み込むように周りに浮遊しているためであることに気付くのに、さほど時間はかからなかった。(まずい······突然だったから、息が、······っ) こぽっと左手で塞いだ指の隙間から気泡が零れて、遠くなっていく水面に上がっていく。そんなに深い運河ではないはずなのに、まるで底なし沼のように下も上も解らなくなる。ぎゅっと右手に握られた横笛に力が入った。(息のできない水の中じゃ、······俺の力は役に立たない) 足に絡みついて離れない"それ"は、どんどん無明を暗闇の中へと引きずり込んでいく。その度に空気が漏れ、意識が遠のきそうになった。けれども先程から耳元で煩いくらい喚かれる、異様に低かったり高かったりする声が、何度も無明を現実に戻してしまう。(······これ、は、怨霊の集合体?) いくら水がそういうものを呼び込みやすいと言っても、この怨霊の数は尋常ではない。しかも都は玄武の宝玉の恩恵を一番近くで受けている地だ。こんなモノが自然に集まるはずがないのだ。(······もう、これ以上、は) こぽこぽと先程よりも多くの気泡が口の隙間から零れ落ちていく。抑えていた手も力を失くし、真の暗闇に視界が染まる。声は相変わらず喧しく、再びこちらに引き戻そうとする。その度に苦しさが増し、頭が痺れてくる。『————忘れないで?』 ふと、誰かの声が頭の中に響いた。あれは、あの声は、誰のものだったか。『————これはあなただけに捧げる名だよ』 名前、を呼べと。 その声は告げる。その声は、あの喧しい怨霊たちの声を掻き消して、無明を暗闇から光の方へと引き戻す。(·····きょ······げ、つ········鏡月っ) 水面があるだろう方向に、横笛を掲げるように伸ばす。沈んでいく身体。朦朧とする意識。薄れていく視界に、ぼんやりと柔らかい金色の光が生まれた。"それ"は、怨霊の塊を突き破って真っすぐに無明の所にやってくると、迷わず腕を掴んで身体を引き寄せ、大事に抱きかかえるように、水面に向かって泳いでいく。 怨霊たちは叫び声を上げ、今度はふたりを捕らえようといくつもの黒い触手を伸ばした。「八つ裂きにされないと気が済まないらしい」 ふっと口元を緩め、水中で言葉
白笶は術式を展開し、双剣に『雪』の霊気を帯びさせる。途端に辺りが真冬のように冷たくなり、その霊気の影響を受けた地面に霜が降りる。その霜は本物の霜ではないため、白い光を湛えて白笶の周りを照らしているように見えた。(すごい······これが白群の直系だけが持つ能力) しかも白家は『雪』だけでなくすべての能力を有する。状況に応じて使い分けることもできるので万能と言えるだろう。 相手は水の龍なので、動きを止めるには『雪』が有効。白笶は水龍の眼を無明から避けるため、そのまま地面を蹴って、禍々しく光る赤い眼の所まで飛翔する。 水龍は蛇のようにその身をうねらせ、白笶の双剣から繰り出される攻撃をかわそうとするが、必ず一太刀浴びてしまう。裂かれた部分は凍ってしまい、身体の中を常に流れる水でも修復ができない。 上空で行われている攻防に、無明はただ息を呑んで見ていた。目の前の水龍は邪龍に転化しているため、もはや並みの術士では手に負えないだろう。それを物ともせず、白笶は顔色ひとつ、表情ひとつ変えずに双剣で追い込んでいく。 決して水龍が弱いわけではなく、彼が強すぎるのだ。さすが五大一族の中で一、二を争う、実力者のひとりと呼ばれているだけはある。 しかし水龍もただされるがままというわけではなかった。その陰の気を帯びた水を自在に操り、無数の鋭い水の矢を自分の周りに作り出し、白笶へ向けて放ちながら攻撃を阻む。それしていた白笶だったが、それが目眩ましだったことに気付く。視界が開けた時、それはすぐそこまで迫っていた。(······危ない!) 思わず無明は横笛を口元に運び、息を吹き込む。その音は心の内とは正反対で、どこまでも落ち着いた美しい音色が奏でられる。大きく口を開けて、目の前の白笶をその身に呑み込もうとしていた水龍の鋭い牙が、勢いよく開いたままぴたりと止まる。(麗寧夫人に貰った譜の術式がこんな所で役に立つなんて、) あの日、夫人が持ってきたその譜面に奏でられた音には、術式が施されていた。白冰と一緒に解読したが、それは希少な術式だった。いくつかあった譜面の中の五曲がそれで、他はごく普通の譜面であった。 いったいどこで手に入れたのかと、麗寧夫人に後で訊ねてみたが、夫人も父親に貰っただけで、その父親も旅の商人から買い取ったという情報しか得られなかった。 その曲は今まで奏でた
夜も深まった頃、市井の灯りは煌々としているが、この時間に外を出歩く者はほとんどいおらず、誰ともすれ違うことがなかった。闇に潜む者たちは灯を嫌うので、この辺りは常に灯りを絶やさないようにと習慣付けられているからだろう。 昼間の賑やかさとは一変、静寂の中響くのはふたつの足音のみ。風の音さえしない静まった空間は、不自然に思えた。ふたりの足音が同時に止まる。「······これは、領域結界?」 領域結界はそれを張った主が解かない限り出られない空間である。現実と全く同じ風景が視界に広がっているが、その一部分を切り取られたように存在しているはずのものが、実は存在していないのだ。 領域は限られた空間のため、ある一定の範囲以上は見えていても存在せず、透明な壁にでも突き当たったように進めなくなる。現に、無明たちは目の前に道が続いているのにも関わらず、それ以上進むことができなくなっていた。「竜虎がいればすぐに解除できるんだろうけど、」 金虎の直系の能力は万能だ。どんな術式も陣も領域結界でさえも無条件で無効化できる。だが同じく直系である無明には、その能力はない。五大一族の中でもかなり特別な力で、全員が全員持てるものでもないようだ。 領域結界を展開された時、ふたり以外いなかったし見ていた者もいない。つまり、取り込まれたふたりに気付く者はこの結界を張った主以外、誰もいないということ。「水妖はただの囮だったのかもしれない」 白笶は落ち着いた口調で呟く。術士たちを瀕死の状態にし並の者では手に負えないと思わせれば、次に出てくるのは間違いなく白群の公子だとわかった上で、おびき出された可能性もじゅうぶんにある。「領域結界は上級以上の妖者か、もしくは妖鬼がつくりだせるって聞いたことがあるよ。水に関わるなら、水鬼? とか」 その時だった。突然、ふたりの右側を流れる運河の中心に渦が生まれる。それはどんどん広がっていき、運河の水が竜巻にでも巻かれたように激しく渦巻いたまま、深い闇の空に噴出された。「あれは······水龍!?」 その水は形を変え、鋭い赤い眼をした巨大な龍の姿に変化しただけでなく、大きな口を開け、聞いたことのないような甲高い声を上げた。思わず耳を塞いで無明は苦痛で眼を細める。その奇声のせいか、周りの音が遠くに聞こえるような錯覚を覚えた。 白笶はいつの間にか両手に双剣
部屋に戻った無明と白笶だったが、そのままこの茶屋に泊まることにした。元々どこかの宿に泊まり夜を待つ予定だったので、違う宿を探す手間が省けたのだ。 椅子に座っている無明の髪を梳き、慣れた手つきで左右ひと房ずつ三つ編みを作ると、乾いた赤い髪紐でそれぞれを纏めてひとつに結った。残った髪の毛はそのまま背中に垂らす。結い終わったのを確認して、無明は後ろにいる白笶をそのまま見上げる。「白笶は本当に器用だよね、」 黒い衣に着替えた無明だったが、今の髪形ならば先ほどの衣の方が合っている気がしてならなかった。白笶は見上げてくる翡翠の瞳をただじっと見つめ返すだけで、特になにも答えない。「俺はいつも適当に括ってるだけだから、こういうのは新鮮なんだ」 紅鏡を出る時は、藍歌が結ってくれて、途中は白笶が直してくれた。碧水に着いてからは手間がかかるので、結局いつも通りの髪形にしていた。「じゃあ、ここからは本題に入ろうかな。白笶も座って?」 正面の椅子に座ったのを確認して、無明は真っすぐに白笶を見つめた。ここに来た目的は、ただ市井を満喫するためだけではない。 身をもって試したのですでに検証済みだ。身の危険には至らなかったが、それは白笶《びゃくや》がいたから回避できただけ。しかし聞いていた場所から移動していたのが気になった。「水妖は移動する。先ほどの場所に留まる可能性は低いだろう」 白笶は市井の簡易的な地図を広げ、指差す。「最初の怪異はここ。上流に近い場所だった。その次はこの場所、」「さっきの接触事故はこの辺りだったよね?」 こく、と小さく頷く。そうなると次に現れる場所はもっと下流の方だろう。夜になれば船は出ず、外を歩く者もいない。捜すのはひと苦労かもしれないが、範囲は絞れるはずだ。「この辺りの水位はそんなに深くはないが、引きずり込まれたらこちらが不利」 人は水の中では思うように動けず、それは自分たちも同じだ。気を付けなければこちらがやられてしまう。現に、すでに何人かの術士が瀕死状態になっており、白笶に依頼が回って来たのだ。「君が心配だ」「でも囮は必要だよ。さっき俺を逃したわけだから、もしその水妖に執着心があるのなら、最適の餌でしょ?」 水妖を誘き出してわざと捕まり、あとは白笶が倒すという単純な作戦だ。単純だが、とても危険な賭けでもある。水に引きずり込まれてか
その唐梅楼という名の二階建ての茶屋は、宿泊も兼ねているようでかなり立派な造りだった。白笶とずぶ濡れになっている無明を見るなり、替えの衣を用意してくれただけでなく、一番広い部屋に案内してくれた。 赤を基調とした造りの派手な茶屋で、店の名の梅の色を表現しているらしい。所々に梅の花の造花が飾られていて、店内は甘い香りが漂っていた。部屋に着くなり、無明は恥じらいもなく目の前で次々に衣を脱ぎだす。白笶は脱ぎ捨てられた衣たちを無言で拾い上げ、腕に掛けていく。薄青の自分の衣だけは丁寧に畳まれていた。 日焼けのひとつもない生白い上半身は、どこもかしこも細くて心配になる。赤い髪紐に手をかけ、括っていた髪の毛を解いて背中を隠すように垂らす。正面を向いたまま、無明は首を傾げて、白笶の方を見上げる。「その衣をもらっていい?」 店主が用意してくれた衣は、白笶の立っている場所のすぐ横の棚の上に置いてあり、わかったと手に取った。しかしその衣を広げた途端、眉目秀麗な白笶の眉が、思わず歪んだ。「··········替えを貰ってくる」「えーいいよ。着られれば問題なし」 どう見ても女物の衣で、先程下の階で働いていた女人たちと同じ衣のようだった。麗寧が纏うような薄い衣でも、露出が多い衣でもない分まだマシだが、薄紅色の上衣とその下に穿く桃色の下裳に言葉を失う。 仕方なく手渡し、無明は少しも躊躇わずに纏っていく。紅鏡から出る時も着ていたが、全く抵抗がないようだ。そしてやはり似合っていた。 無明は固まっている白笶の腕から自分の衣を取って、部屋を仕切っている屏風に掛ける。髪の毛は括らずに垂らしたまま、赤い髪紐も一緒に乾かすことにした。「日当たりのいい部屋で良かったね、」 大きめの花窓から降り注ぐ暖かい光に手を翳して、無明は眩しそうに瞼を細める。それから白笶の前にやって来て、下から顔を覗き込む。「ここのおススメは梅茶と無花果の餡が入った餅らしいよ? 白笶と市井に遊びに行くって言ったら、麗寧夫人が何軒か教えてくれたんだけど、ちょうどそのひとつがこの茶屋なんだ」「······甘いものが好きなのか?」「うん、好きだよ!」 そういえば紅鏡の市井でも点心の店に寄っていた。ほぼタダで持ち帰った点心は、夫人に渡したらものすごく喜んでいた。ふたりは下の階に降り、賑わう店内の中、空いている席に通され